胡蝶眼鏡(4)
技術者として働いてきた私は,会社に泊まることも多く,子育ても家事も任せっきりで,妻には迷惑ばかりをかけていました.申し訳ない気持ちが常にあった私は,定年退職をしてから,料理を習ったり,フェリーを使った国内の長旅に行ったり,今までの穴埋めを賢明にしました.結婚してから一度も経験したことがない豊かな時間が続きました.とても幸せでした.

そんな幸せなある日,私は妻の異変に気づいたのです.妻の作る料理はたいそう美味しいですが,あるとき,妙に味が薄い味噌汁が出てきたのです.最初は,うっかりしていたのだろうと思いました.しかし,その後も,真っ黒焦げの魚や煮物が続きました.

異変は,止むことがありませんでした.自分が乗る軽自動車の燃料タンクが満タンであるにもかかわらず,毎朝,近くのスタンドに給油へ行くようになりました.見知らぬ若い夫婦に対して,古くから知っているかのように親しげに話しかけたりしました.

さすがの私もおかしいと思い,嫌がる妻を連れて病院へ行きました.髪を短く刈りあげた若い医者が下した診断は「アルツハイマー型認知症」でした.医療が高度に発達した今は,ガンは不治の病ではなくなっています.しかし,アルツハイマーに対しては,まだ治療法が確立されていません.もちろん,薬物療法や,行動療法など,複数の取り組みが行われています.ただし,どれも,決定的な治療法ではありません.

それでも研究は進んでおり,遺伝子のタイプ別に,認知症の進行を遅らせる療法が提案されていました.妻の遺伝子タイプの場合は,3種類の薬を服用しながら「回想法」を行うと良いと,若い医者が言いました.彼はPC上に表示されたシミュレーションデータを見ながら,薬と回想法が期待通りの効果を発揮した場合には,今後4年間は症状の進行が抑えられるだろうと,私に告げました.

「その後はどうなるのですか」

私は思わず尋ねました.すると,PCを見つめていた医者は,ゆっくりと私の方を向いて冷たくこう言いました.

「残念ですが,病の進行を止めることはできません」

ちっとも残念とは思っていない医者は天気予報を伝えるように続けます.

「6年後に,奥様は,90%の確かさで,あなたのことが分からなくなるでしょう.そして,70%の確かさで,衛生上の問題も起きるはずです.つまり,排便に問題が生じます.そうなると,あなた一人では対処ができなくなります.認知症のケアを専門に行う施設を紹介しましょう.紹介状を書きますので,帰りに予約して下さい」
「予約しろって,6年後の予約をですか」
「そうです.6年後の予約をです.知らないのですか?今は,認知症の患者が急激に増えて,沢山の方が施設への入所待ちをしていますよ.入りたいから直ぐには入れるというわけではありません.だから,早めに予約するのです.今から予約しておけば,85%の確かさで入所できます」

天気予報のような話し方をする医者に,私はイライラしてきました.

「そうですね,6年後に,もう一度いらして下さい.再度,診断します.ひょっとすると,入所を先延ばしできるかも知れませんから」

医者はそう告げると,用事が済んだら帰ってくれと言わんばかりのように,再びPCに顔を向けました.

続き:16/02/01 胡蝶眼鏡(5)