胡蝶眼鏡(5)
あの人間性の欠けらもない若い医者のことは,今でも鮮明に覚えています.私が作ってきたロボットでさえも,あの若造よりも丁寧で親身な応対ができます.私は,彼の態度に憤りを覚えつつ,おどおどする妻を連れて,処方箋を手に調剤薬局へ立ち寄り,その後に紹介された施設へ行き,6年後の予約をしました.

それから,先行きが不安になり気が滅入ったことも何度もありましたが,何とかやってきました.実は,妻と過ごす回想法のひと時が,私にとって,最大の喜ばしい時間となったのです.

皆さんもご存じのように,認知症患者の多くは,新しいことを覚えることができなくなります.例えば今朝,何を食べたかということを,聞いても答えられません.それどころか,食べたことさえ忘れてしまうのです.だから,コミュニケーションがとれなくなり孤立します.しかし,昔のことは良く覚えているのです.回想法とは,その人の昔の思い出話を,一切否定せずに全て受け止めて丁寧に聞く療法です.回想法で昔のことを丁寧に聞いてあげると,とたんに落ち着きを取り戻します.

私は,毎日のように,妻と昔の話をしました.徐々に,繰り返し,繰り返し,同じ話をするのですが,それでも,私にとって,妻と行う回想法の一時は,幸せでした.

妻の記憶は,新しい方から徐々に失われていきました.6年前は,定年後の旅行のことを話してくれました.あそこの旅館が良かったとか,旅先で出会ったあの若夫婦は今頃何をしているのだろうかとか,私が覚えていないような細かい話をたくさんしてくれました.ところが,徐々に,旅行の話をしなくなったのです.水を差し向けても,旅行など行ったことがないと言い始めました.その代わりに,私が定年する前にあった娘の結婚式の話をするようになりました.その後は,私が知らない子どもの頃の話をするようになりました.

6年が経過した今年,ついに,私のことも分からなりました.私の名前も,私と結婚したことも,忘れてしまったようです.実は先月のことですが,妻との話が全くかみ合わない日があったのです.そこで,試しに私は誰か聞いたのです.妻は,それには答えませんでした.私は,深い悲しみに包まれました.

悔しいことですが,あの若造の医者が言うように6年を経過した今年,妻は私のことをほぼ忘れました.記憶が戻る日も,時々はあります.それでも,調子が悪い日が多くなってきています.ただし,衛生上の問題も起きていないので,施設に妻を連れて行く気には,まだなれません.もう少し踏ん張りたいのです.

続き:16/02/08 胡蝶眼鏡(6)